4月18日の新聞記事より(伊藤長崎市長銃撃事件他)

 この随筆は発信せずにいられない感情が湧いてきたときに書く。そのような時には大体、感情的になっているので自分の本能に近い部分というか、潜在意識にある自分の荒々しい部分が出てくる。冷静になるとその荒々しい部分を抑制して理性的に考えようとする自分が出てくる。
 時々、自分で過去の随筆を読むが、概ね理性的な部分が前面に出ていると思う。あれで結構感情を抑制している。荒々しい部分が前面に出た文章は人間の本性を丸出しにしたようで少し嫌悪感を抱く。

 しかし、今日は本性丸出しで書く。少し汚い文章になるかもしれない。

 17日夜、伊藤長崎市長が暴力団「水心会」会長代行の城尾容疑者に銃撃されて死亡した
 容疑者の城尾は車の転落事故でバンパーの修理代金として60万円を市に要求し、その後、ホイールが悪くなったなどと、主張がエスカレートし、200数十万円を要求するような人物である。89年7月には「公表すれば問題になる写真を持っている」として当時の本島等長崎市長から1000万円を脅し取ろうとした一人で恐喝未遂事件で逮捕されている。また、関係者が市の制度を利用した銀行からの融資が断られたことにも恨みを抱いていたらしい。

 こう見てくると城尾は世の中にたかって生きるのを生業とする暴力団そのもので、社会の寄生虫、蛆虫そのものである。その蛆虫の生き方を城尾は正当と考えているのであるから、今回の事件は完全な逆恨みによるものである。城尾の元妻がテレビに出て、市を批判していたが、この女もおかしい。このようなおかしな考え方は家庭で再生産されるから怖いのである。

 昔、小学校の先生が“やくざにも良いところがある。約束を守るとか。”などと発言したのを覚えている。昔の教師は今考えると人権意識にも乏しく、出鱈目な教師が多かった。それに比べて現在の教師は大変である。馬鹿でかつ自己主張ばかりする変な親が増えたし。ところでやくざが約束を守る? やくざは仁義を世界と言うが、本当か?

 仁とは、思いやりの心である。義とは、人として守るべき正しい道でる。どちらもやくざの蛆虫集団とは無縁である。今回も警察の調べに対して城尾は「市長を撃って、自分も死のうと思った」と語ったようであるが、今でものうのうと生きている。死のうと思ったのなら今からでも遅くない。早く死ね。

 江戸の武士道では喧嘩等で人を切ったときは、自分も死ぬのが前提であった。人の命を奪うには、自分の命を懸けることが要求されていたのである。人の命を奪って、死ぬだけの度胸のない人間は逃げるしかなかった。潔い人間は相手を殺した後で切腹した。蛆虫の城尾は逃げようとした。何が「自分も死のうと思った」だ。うそをつけ、蛆虫。格好をつけるな。お前は卑怯者以外の何者でもない。人間の屑である。

 大体、暴力団に対する対応が生ぬるい。幹部が下っ端に殺人をさせて、下っ端の判決が5年ちょっととか出てたような記憶がある。人を殺して5年チョイ。実際は3〜4年で出所。一方、飲酒運転では罰則が厳しくされているが、一番厳しいので懲役20年かな。酔ってたまたま事故って人を殺すのと明確な意思を持って殺人を犯した罰則が同列では困る。暴力団が人を殺せば、即、死刑くらいに厳罰化すべきである。

 日本国内に出回っている拳銃は5万丁位あるらしいが、暴力団が拳銃を所持していたら、即、死刑か、収容所送りにしたら良い。今問われているのは、本当にこの蛆虫集団を抹殺する意思を国民一人ひとりが持つか否かである。覚醒剤もそうである。暴力団が所持していたら、即、死刑にすべきである。現在、中国で覚醒剤だったか、麻薬だったかを大量に所持して日本人が逮捕され、死刑判決が出ている。まだ、確定していなかったかと思うが、確定すれば、死刑である。それくらい厳しくしたら良い。死刑乱発で何が悪い。死刑後の臓器は移植に使ったら良いではないか。殺人者に人権も何もあるもんか。

 大体、これら蛆虫集団が刑務所に入っているのを何で我々の税金で食わせてやらねばならないのだ。刑務所内でも仕事をさせて自分達の経費は自分達で稼がせたら良い。稼ぎきらないのなら餓え死にさせたらよい。世間はそうなっている。現実に貧乏人は餓え死にしているのである。世間並みに刑務所の中も厳しくすべきである。蛆虫に恵む金はない。

 同じく18日朝刊に「受刑者、減塩食無く腎不全」の記事。殺人罪等で懲役20年の刑が確定し、服役中に慢性腎不全になったのは宮城刑務所が減塩食を出さなかったためだとして、550万円の国家賠償請求していたもの。仙台地裁は、慰謝料など70万円の支払いを国に命じた。刑務所側は「しょうゆやソースをかけることを控え、汁物は具だけ食べて汁は残すように」と指導していたが、受刑者(55)が従わなかったと反論。判決は、「受刑者にとって食事は大きな楽しみ。ソースをかけず汁も飲まない塩分制限の厳守は難しく、減塩した特別食を用意すべきだった」と述べた。世間では生活保護を貰えず餓え死にしている人間がいるのに、受刑者の健康と楽しみまで国が守ってやらねばならないのか?その考え方、おかしくないか?

 人を殺しておきながら、どこまで他人のせいにして、世間に世話焼かせたら気が済むのか権利の主張ばかり自分はやりたい放題、殺したい放題。しかし、自分の権利はしっかり主張。こんな人は早く死んでくれ。あんたの存在理由はどこにも無い。仙台地裁もどうかしている。それでは俺が肥満した責任は、俺に食物を売った全ての店にあるのか、会社帰りの飲み屋が悪いのか。俺が悪いんだろ!まるで自分が肥満したのはマクドナルドが悪いとアメリカで裁判起こした話と一緒じゃないか。

 最近、刑事事件で被害者感情重視の動きが強まってきた。小学校の社会で日本の刑事裁判について学んだ。日本は、検事が被害者に変わって犯罪者を訴えると。そうすることで裁判を被害者の復讐の場にせずに済む。しかし、先日テレビを見ていたら行列のできる法律相談の橋下弁護士だったかが、刑事裁判は復讐だと言っていた。そりゃ違うだろう、と言いたいが、上に書いている俺の意見は完全に復讐の考え方に近い。復讐と言うよりも犯罪者の人権無視の厳罰化だな。

 アメリカではバージニア工科大で韓国出身のチョ容疑者が32人を射殺した。アメリカはこれだけ文明化した社会で未だに武器所持を認める異常性を持った国である。このような事件が起きて当然である。国家自体が異常であるから、起きる事件も異常性が大きい。全米ライフル協会の政治力が強く、政治家も武器所持禁止を強く主張しきらない。アメリカの民主主義なんてこんな程度である。集金力=大統領である。金の力で政治は動くのである。

 しかしである、復讐や排除の論理では世の中は良くならないと思う連続ピストル射殺事件で死刑が執行された永山則夫などにしても悲惨な子供時代を過ごしている。精神科医の話で聞いたことがあるが、大体、子供の問題行動の裏には家庭の問題があり、その家庭の問題は父母が子供の頃に背負った問題が影響していることが多いらしい。不幸の世代間伝達である。しばしば、しつけの名の下に子供を虐待する親の記事が新聞に載っている。いつも子供を可愛がっていたのに何故あんなに虐待するのか、と言った例もある。これなども虐待の世代間伝達である。虐待した親の子供時代を調べるとやはり子供時代に虐待されていた例が多いのである

 世の中から排除されたされた人間は二つの道を辿るしかない。黙ってその境遇に甘んじるか、徹底的に世間と戦うか。どちらかになる。悪い方向で戦えば、反社会的な行為になるだろう。このような人間を出さないためには、少なくとも日本国民全体が排除者を出さない努力が必要だろう。現在の市場原理主義に基づいた政治は弱者切り捨ての政治である弱者排除の論理なのである。そういう意味で今後、犯罪は悪質、多発化するのは間違いない。
 

 蛆虫集団は許せないが、その蛆虫集団を存在させている原因の一端は我々自身にも責任があることを理解すべきである

 歎異抄 第13章に次のような記述がある。

 『また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、がいせざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきおばよしとおもい、あしきことおばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたもうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。』

 細かい解釈は分からないが、親鸞聖人は『我が心の良くて、殺さぬにはあらず。』と言っている。極悪の犯罪を犯していない自分があるのはたまたまだと思っている。永山則夫の家庭に自分が生まれたら、同じようなことをしたかもしれない。勝者も人生の全ての結果を自分の努力の結果だなどと思い上がってはいけない。たまたまなのである。安倍がなぜあの年齢で首相になれたのか。あの家に生まれたからである。最初から勝者の家に生まれて、それを順当に引き継いだ。貧乏人は貧乏だけでなく、不幸の世代間伝達まで引き継ぐ可能性が高い。最初から差別化されているのである平等なんて最初から存在しない。それを安倍は努力したものが報われる社会をというが、最初から努力する気力も学力も削がれた階層が存在するのである

 どういう社会を目指すのかそれが問われている

(2007年4月21日記)

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